昭和40年?月?日 日付不明     テープ№40-019 B面-2

                         末永静行

(途中から)
そこんところをそ言うふうに考えたんですね、はぁー本当に先生そうでございましょうねち言うてから、まあ、今日は言われるわけですよ、ね、苦しいとんで罰かぶっとるとですよほんと、ですからもうそこはもう詫びるほかにないです。
罰かぶっとるてんなんてんと言う言葉は別にはね、あんまり申しません、それもやはり神愛のなら、だから、罰という罰と言う事も言うならばあれは神愛なのですいうなら、ね、それをお道、お道でいう(     )流で言えば、それは神愛の現われであると言う事になるのです、ね。
永瀬さんが病気を入院される前に、あれはどのぐらいでしたですかね、午前中ここで修行をされたのが、一年間でした。一年間修行をさせましたですね、私はここで修行生なならんちゃないけども、あのぐらいな修行が私は必要じゃなかろうかと思う、ね。
遍照金剛のおかげを頂くためにも、ね、本当にあの確固たるこの力とか信念とかと、というものを頂く、本当に信心の教えを地で行くと言う生き方をしなければ駄目です、ね、神様は分かっておる、同業人の信心も分かってきた、ね、神様の働きを受けなければ、いや、神様と共になからなければ自分達は幸せになれない事も分かっておるんだけれどもです、なら、その神様を現しきっていないと、ただ同業人のこうしたお譲りと言うんですか、あれを羽織っとるだけの事、いわゆる、金剛不壊の杖をついていない、金剛免状の杖をついていない、神を杖についていない、神を杖につけば楽と仰るとに楽ではない、本当にしるしい、じつない、ね。
本当に自分の商売の上に、例えば繁雄さんで言うならそのゴボウふりの上にです、福島さんで言うなら商売の上にです、篠原さんで言うならお勤めの上にです、ね、私は本当に信心の教えを地で行くところの信心がです、なさらなければ、私は力を現す事は出来ないと思う、分かっただけでは。ね、
本当に信心の教えを地で行くと言う修行なんです。私は永瀬さんの一年間のここでの修行というのはです、その事をいわば専念されたとこう思うのです、ね、修行ならここに来なければならんと言うふうで、ここでおったって同じなんです、家族の者なんかそうでしょう、朝の(     )おったというてその修行が出来るということじゃないけれども、あれもこれもかなぐり捨ててです、教えに生き残ろうとするところの、やはり私は一年間がです、非常に永瀬さんの信心の基礎になったと私は思うんです。ね。
ですから、お互いの職場においてです、お仕事の中にです、本気で信心を元にしよう、教えを元にして、損とか得とかいわずにです、きついとかきつくないとかはいわずにです、それが有り難くできれるところまで私はおかげを頂かなきゃいけない。
これは私がお商売を福岡でさせて頂いておる時分のしばらくの心境でしたけれども、当時、お店の方が四人おりました。ね、私は朝の御祈念にお参りをして帰ってまいりますと、乗りる人の自転車をきれいに雨のふらずを洗ってからきれいに磨き上げました、それがもう有り難うして応えんじゃった、ほんと、ほんなこと、あの時分な、今はご飯ばっかり焚きよりましたけれども、もう、芋たき物によって頂く事が有り難かった、ほんなこつ言うならです、いわば、私が大将だから、私が一番よかところを食べてもよか、ほんなこつなら私の自転車をその人たちに掃除させても良い、けれども、それをさせて頂くと言うことがありがたくて応えんじゃった私は、ね、お芋のところだけを頂くことがです、有り難くして答えんじゃった、頂きながら涙がボロボロこぼれた、もう冷たい時なんかはです、もうそのつめ、さっきのゴボウの話じゃないけれども、つめたたいなんかはぜんぜん有り難い、感じなかったです、どんなに自転車朝、お仕事にでる前に、洗わせて頂くのが、もうそれはその中の具体的なことを言うなら、とにかくもう、また、今日一日をですね、こう言う自転車によってから、またその、使わせて頂くと言う事、ね、一日つこうて帰ってきたらです、汚れておったそれを洗わせて頂くことがです、もう本当にものを言わん自転車に有り難うございます、有り難うございますってないようお礼を言いながらの事ですから、もう辛いも冷たいも寒いもなかったです、いわゆる、教えを本当に忠実にです、実意丁寧に行じ抜かせて頂く時にです、その冷たいはずのそのゴボウ吹雪がです、私は有り難いものになってくるようなおかげに、おかげに、そう言う日々をです、私は本気で続けさせて頂かなければです、遍照金剛になってこないと思う。
お互いが神様を頂かなければ立ち行かんと言う事は分かった、もうこれは恐らくはなられないだろうと、これだけの事が信心が分かったら、けれども、その分かった神様をです、ね、現していくと言う事には私は神を杖似つかなければ楽ではないと思う。本気で神様をです、御教えをです、行じ抜かせて頂く、本気で行じ抜かせて頂く信心がです、私は欠けておるじゃなかろうかと今日思うた、ね。
神様が、と共にあるとか、同業二人とか、信心なしでは生きていかれないと言う事が分かっただけでもこれはありがたいこと、けれども、その有り難い神様をです、いよいよ、ね、現していくと言う事、ね、その現して行くと言う事は神を杖につかなければ現してはいけないと思う。
神を杖につけば楽じゃと仰る、神を杖についての例えばゴボウすごきであったらです、ね、先生が知ったこともなさらんけんそげん言いなさろうばってん、とてもゴボウすごきちうものはそげん楽なものじゃありませんと言われるかもしれません、ね、けれどもです、教えを本当に忠実に徹して、本当にそれを私共の場合はそれをしようと思わなかったです、その時分の気持ちを表現を中々出来ません、けれども、それは確かにそうでした、もう馬鹿らしいとも思いませんでした、芋ばっかり頂く事が有り難かったし、ね、今の自転車を洗ったり研いたりする事が有り難かったと言う事は事実なんです、ね。そこにはもう、いわば、神を杖についておる楽な場というものを神様は与えられておったと言うふうに感じるのです。そこが今の壮年部の方達に欠けておるのではなかろうかとこう思うのです、それが、その修行が、神を杖に付いていない、その証拠に楽ではない、神を杖につけば楽と仰る。
その、例えば、債鬼と申します、借金と言う、それこそ、罪なんでもないような責め立てられ方がです、辛いです、けど、辛いけれども、心の底にはです、にやっと笑う、神様があの手この手を持ってから修行させてくださるなあと、ははぁ今、前の罪の償いが出来ておるなと思うたら御礼申し上げずにはおれんのであり、ありがたいのであり、心の底にはには、いわば、にやっとするようなものがです、ニヤニヤ笑っとったら、せっかっく一生懸命なってから腹かいてござるその借金とりの人たちに気の毒くいから、ほんと困ったような顔をしとっても、心の底ではにやっと笑われるようなものがです、ありがたいなと思うてゴボウ堀をゴボウ(     )させて頂きながらです、有り難いなというようものをですね、感じられるところまでの信心がです、出来ていないのは神を杖についていないからだと思うんです。頂けれるですそれが、それを頂けれるのが信心なんです、それがです、ね、私は金剛不壊の力になると思うんです、それが、天地に遍くようなです、働きになってくるというふうに感じますですね。おかげを頂きました。